5/18 午後10:15 父が亡くなりました。享年75歳。死因は急性心不全でした。
父は何かと記録に残す性格で、阪神大震災の時も身近に起こった事やその時に感じた事などを
個人的に本にし親しい友人や親戚に配っておりました。
娘の私が言うのもなんですがよく出来た内容で周囲の方々からの評判もとても良かったもんです。
晩年は終活もしており、少しだけ私も手伝っていたのですが、父の人生に関わった方々の
詳細をノートにまとめる作業から取り掛かっていました。
その中には3年ほど前に他界した実家の猫アンジの事と父が小学4年生から大学卒業まで飼っていた
柴犬ミックスの事も愛情深く記載されていました。
今回、父の死を記事にしようと決めたのは、このように父が記録する事が好きだったから。
自分の最期を記録されるのは父もきっと喜ぶだろうと思ったからです。
私個人としては父の終活の最後を引き継ぎ、父の最期を周囲の人々がどう受け止めたかを
父に読んでもらいたいという想いと、父への弔辞という想いで記事にしようと思っています。
そのため、誠に勝手ながらコメント欄は閉じさせて頂きます。
本文には気分を害する内容が含まれる可能性がありますのでご注意下さい。
18日 午後9:58 私の携帯電話に母から「お父さんが倒れて今病院にいる」と連絡がありました。
倒れた?なぜ??どこで??
とにかく病院名だけを聞き、かばさんと車で急行。
かばさんはお酒を飲んだ後だったので運転は私。
本降りの強い雨で時々視界がほとんどなくなるほどの土砂降り。アンジが亡くなった時と同じような雨。
車中では、父がどこでなぜ倒れたのか?等、かばさんと色々憶測しながら話していました。
するとなぜかふと、お父さん、ダメかも知れないな。。。。と、思ってしまい、かばさんに
「お母さんから連絡が入るかも知れないから私の携帯をカバンから出しておいて」と言いました。
かばさんが私の携帯電話をカバンから出すとすぐ電話が鳴り、かばさんが応対してくれました。
午後10:13 。母からでした。
かばさんの話す口調からすぐ分かりました。
「お父さんダメだった?」と、私がかばさんに聞くと「うん。。。」という返事。
全く理解出来ませんでした。
父は血圧も低く、タバコは吸うけどこれといって命に関わる持病もなかった。
定期的に健康診断も受けており、なにより元気なのが取り柄でした。
75歳という年齢ではあったけれど、周囲の人たちも驚く体力の持ち主でいつも活発に動き回る。
食欲も旺盛で、私もかばさんもよく食べるけどそれを上回る大食漢。
父は誰よりも長生きするだろうと親戚や友人、私たちもいつも言っていました。
75歳の割には〜 という言葉が不要なくらい元気な父でした。
私とかばさんが病院に到着したのは午後11時少し前。
すぐ救急外来へ。
先に到着しているはずの妹と母の姿は見当たらず、受付の方に伺うとしばらくして私たちは
霊安室に案内されました。
ストレッチャーに横たわった父の側には母と妹。
ふたりとも呆然とした表情。
私より病院の近くに住んでいる妹も間に合わなかったらしい。
父の口にはまだチュープが入っていました。
顔色は悪いけど表情は穏やかでただ眠っているだけに見えました。
私は父の頬やおでこに手を当て「お父さん。。。」と呟いたのを覚えています。
もう体温は低かったけどそれ以外の違和感は何もありませんでした。
肌も自然な弾力があり、いつものお父さんの眉毛、おでこ、頬、耳。
見た目はいつものお父さんそのもの。顔色が少し悪いだけ。
父に一体何が起こったのか、母がいつもより少しだけ興奮した口調で話してくれました。
18日の夕食が済んでしばらく経った頃、おそらく午後8時50分くらい。
午後9時から父が見たいTV番組があったので父に声をかけようとふと廊下に目をやると
トイレからうめき声が聞こえたそうです。
母がすぐトイレのドアを開けると、汗びっしょりの父がトイレの壁にもたれかかって
座った状態で倒れていたそうです。
母が「お父さん!」と言うと、父は「あ〜 もう⚪︎⚪︎(母の名前)に会えないかと思った。。。」
と言ったそうです。
母がすぐに「救急車呼ぶよ!」と父に言うと「要らない。だいぶ楽になった」と答えたのだそう。
でもその時の父は、目を半分だけ開けた状態でこれまで母が見た事のないしんどそうな顔だったそうです。
「横になりたい。。。」そう父は言いながらトイレから這って出てうつ伏せに倒れたのだそう。
これが父の最期の言葉でした。
母はうつ伏せに倒れた父のおでこに濡れたタオルを敷いたりお布団を用意しながら「もう救急車呼ぶからね!」
と言い119番に連絡。
午後9時に救急車が到着するまで電話で色々指示をもらったけど思うように対応が出来なかったらしい。
でも心臓マッサージだけは夢中でやったと母が言っていました。
最初に電話で指示をもらった時、もう呼吸はなく心臓も動いていなかったらしい。
おそらくうつ伏せになってすぐ心肺停止状態。
結局そのまま車中も病院でも一度も父は帰ってきませんでした。
私たちが病院で父に対面してから父が実家に帰宅するまで約4時間くらいかかりました。
霊安室で母から父の最期の話を聞き終わると一旦待合室へ出て警察が母へ事情聴取。
その事情聴取は18日 午後11時過ぎから19日 午前0時まで続きました。
事件性は全くないけど話を聞かせてもらうのが警察の事情らしく、結構長い間話をしていました。
母が警察の方と話をしている間に父の検視。
検視がどれくらいの時間を要するのか教えてもらえなかったので葬儀屋に連絡が出来ないまま
私と妹とかばさんの3人で色々話しながら母の事情聴取と検視が終わるのを待ちました。
3人とも父の死は全く現実味がなかったので(今もありませんが)父のおもしろエピソード等
結構楽しく話しているうちに母が警察から解放され、そこからは4人で葬儀屋さんの話に。
何を基準に葬儀屋さんを決めれば良いのか分からずにいると母がなんとなく
「この葬儀屋さんはお父さんとドライブした時によく前を通ったわ〜」と言ったのが
決め手となり、病院と実家の間にある葬儀屋さんに決定。
検視が終わったのが19日 午前1:15頃。
そこからすぐに葬儀屋さんに連絡し、父を迎えに来てもらう事に。
病院に到着するのに1時間くらいかかると言われたので
父のお迎えは母と妹にお願いし、私とかばさんは一旦家に帰る事に。
お葬式の用意、数日分の荷物、父の遺影を探すためにPCを持参し、シャワーを浴びてから家を出ました。
私が実家へ到着したのは19日 午前5時頃。実家へ向かう道中も凄い雨でした。
父が実家へ帰ったのは午前3時頃だったそうです。
実家の和室に横になっている父は本当に本当にただ寝ているだけのようでした。
霊安室にいた時よりも顔色も良く、表情もいつもの朗らかな表情。
「お父さん」と呼ぶと今にも「お?なんや??」と目を開けそうな寝顔。
結局火葬場までその元気な表情はほとんど崩れる事はなく顔色も良かった。
父は釣りと畑が趣味だったので年中日焼けしていました。そのため顔色が最後まで良く見えたのでしょう。
表情が朗らかで生前のままだったのは葬儀屋さん曰く、闘病生活がなかったからだそうです。
最後まで普通の生活をしていたので栄養状態も良く、顔の筋肉もしっかりある状態だったからだそうです。
私は数年前に闘病生活の長かった伯父と祖母を亡くしているのですが、
二人とも死後どんどんお顔が変化していき、お葬式の時には別人のようでした。
そのため、棺の中の伯父と祖母のお顔を見て「亡くなったんだ」と感じる事が出来たのですが
父には最後まで全くそれを感じる事が出来ませんでした。
毎夕食後、ソファで横になって寝ていた父。しばらくすると慌てて起きて「もう寝なきゃ!」と
今まで散々寝ていたのにそう言っていた父。
今回もそう言いながら起きてきそうないつもと変わらない気持ち良さそうな寝顔でした。
突然死というのもありますが、その朗らかな寝顔を見る度に私たちは父の死に現実味を感じる事が出来ず
いっその事別人の様な顔になってくれた方が良いなぁ〜と、みんなで言っていた程です。
父の骨も火葬場の方が驚くほどとても健康的でしっかりとした大きな骨格でした。
関節も大きくてしっかりしていました。
中でもみんなが驚いたのが歯。
75歳にして自分の歯が全て揃っており、綺麗にならんでいました。
しかも差し歯も銀歯もなく、もちろん入れ歯もなし。
そういえば父は定期的に歯医者に検診に行ってたな〜。
今回は父の最期を記事にしてみました。
お父さん、こんな感じでどうよ?
次は引き続き、私たち残された者が憶測するお父さんの直接の死因を書いてみようと思う。
解剖はしていないので正確な原因は一生わからないけど私たちは多分あの事が原因だったんじゃ
ないのかなぁ〜と思ってます。
お父さん、今日はお父さんが19日に収穫するはずだったレタス、サニーレタス、玉ねぎ、
イチゴ、えんどう豆をみんなで獲って来たよ。
レタスは結構腐りかけてたけど明日サラダにして頂きますね〜。
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テーマ:生きた証として - ジャンル:ライフ
- 2015/05/23(土) 23:59:31|
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